F-BLOOD SPECIAL INTERVIEW #2

デビュー40周年の藤井兄弟が語るあんなこと、こんなこと

お待ちかね、藤井兄弟スペシャルインタビュー後編をお届け!
F-BLOODツアーを振り返った前編とは趣向を変え、デビュー40周年を迎える想いを中心に、ファッション・東京・音楽についてもフリートークを展開。
笑いあり深みあり、 “今の藤井兄弟”の魅力あふれるロングインタビュー。二人の醸し出す空気ごと、たっぷりお楽しみください。

●40周年を迎える想い

———2023年はお二人にとって、デビュー40周年の年となります。それぞれの想いを聞かせてください。

フミヤ(以下F):40年もこの業界にいて音楽で生きているなんてこと、俺自身はまったく想像していなかった。それこそ若い頃には50で引退してると思ってたのに、まさか武道館で還暦を祝ってもらっているとは。しかも、活動してはいても先細りする人も多いのに、それもさほどないまま今までやってこれたことに驚くね。これは本当に、みんなが応援し続けてくれているからこそだよ。しかも現状、こちらが届けたいものとお客さんが受け取りたいものが、ちょうどいいバランスだと感じてる。俺がやっている音楽や伝えたいメッセージというのは、ホールクラスの会場向きなんだよ。だから最大でも武道館ぐらいがギリギリで、あれ以上大きいと伝わりづらいかもしれない。ホールツアーは本数が必要になるから、実は大箱より体力的には大変なんだけどね(笑)。やれるうちはいくらでもやっていくよ。
尚之(以下N):ライブをやり続けるというのは大事なことだよね。今回のF-BLOODツアーも、まだあと何本かやりたい感じがあったし。我々がこれだけ長く音楽をやれているということは、聴いてくれる皆さんがいるから。もちろん本人の努力というのもありはするんでしょうけれど、自分だけでできることじゃない。俺らは、基本的に音楽というレールからはみ出ることなく進んできたんでしょうね。まあ多少脱線したことはあるかもしれないけど、軸足はずっと外していないという。例えば兄ちゃんはアクター系の仕事もやったことはあるけれど、音楽から離れることは一切なかった。ミュージシャンでも、映画とかドラマをきっかけに俳優業が増えて音楽を離れる人も少なくないじゃないですか。
F:それはあるな。俺も尚之も役者の仕事をしたことはあるけれど、むしろそこはどんどん外していったもんね。若い頃からいろんなことをやってきたけど、すでに歌一本というのが明確。自分は完全に音楽が仕事であり、歌で食べているという意識がものすごくハッキリしている。基本的に音楽以外のことは、あくまで付随したものだと思ってるから。
N:自分に関しては、そこは多少ブレたところもあったかもしれない。もし早くから脇道に逸れずにサックスを武器として絞っていれば、もっと極められたのかもしれないと若干思わなくはないけど。楽器をやっている人間というのは、どうもいろいろやってみたくなりがちなんだよね(笑)。でもそんなの、実際やってみたらどうだったか分からないし。もちろん今はもう、基本であるサックスを大切に、しかと最後までやり遂げようと思ってますよ。
F:尚之はミュージシャンだからね。サックスも吹くし、ギターも弾くし、それで曲も作るし。俺はボーカリストとして、今の俺のままでよかったかも。もし頑張って途中からピアノを弾けるようになったりしていたら、作詞作曲するようになったりして、ボーカリストというよりシンガーソングライターみたいになっちゃってた気がするんだよね。そしたらパフォーマンスも今とは変わっているはずだし、なんだか半端な気がする。自分はあくまでボーカリストでやってきてよかったと思うよ。
N:サックスの技術に関しては、自分より上手い人はいくらでもいるわけですよ。でもそういう人たちは、俺みたいなポップなジャンルの音楽はやっていないし、こういうアーティストにもならない。だからこれはこれで、自分が好きでやってきた音楽から背伸びせずに、デビュー以来、好きなジャンルをやれていると思いますね。
F:俺は一度就職したけど、尚之は高校卒業してすぐデビューだもんな。就職先がチェッカーズ(笑)。

———すごいですよね。就職先が「株式会社○○」とかじゃなくて「チェッカーズ」(笑)。

N:そうです。他の仕事はまったくしたことがないし、できません(笑)。

マネージャー:東京への憧れは、フミヤさんが一番強かったんですか?

F:そうだね、俺が一番強かったと思う。デビュー前から東京に遊びに行っていて、渋谷や新宿も知っていたから余計にね。東京で最初に歩いた街は、新宿だったはず。東京駅で新幹線から中央線に乗り換えて、新宿のアルタ前に行ったんだよ。街頭ビジョンを見上げて「あっ、ここがテレビでよく見る場所か!」みたいな(笑)。東京では面白いところばっかり案内してもらって、もう楽しいものしかなくてさ。東京に住んでいる同世代の学生たちは、みんな遊んでいるようにしか見えないわけ。原宿の洋服屋でバイトしてる子たちとか、うらやましかった。なんで俺は東京の学校に行かなかったんだろうって、ジェラシーみたいなのもあったね。俺は子供の頃からファッションが好きだったけど、服やファッションのプロになれる道があるとか、専門学校や大学で好きなことや面白いことを学べるという選択肢があるのを知らなかったから。
N:大学に行くという選択肢は最初から意識していなかったよね。やっと高校を卒業できたのに、さらに勉強するのかよっていう(笑)。田舎だったというのもあるし、時代的にもそうじゃないですか。
F:大学って、経済学部とか商学部とか難しそうな勉強するだけだと思っていたし、美大という存在もよく分からなかったから。まあ、歌で生きてきた今となっては、他の道は知らなくてよかったのかもしれないけどね。

●ファッション

———では、ここからいくつかのキーワードでお話を伺っていきます。まず、「ファッション」について。チェッカーズは斬新な衣装で日本中にインパクトを与えましたが、そもそもフミヤさんは子供の頃からオシャレが好きだったのですね。

F:そう。俺は、小学生の時からファッションが大好きだった。テレビの影響で、フィンガー5とか西城秀樹さんみたいな当時のアイドルの姿に惹かれて、「あんな服を着たい」と思ったんだよね。そうか。実は俺、アイドルに憧れていたのかもしれないな。今さら気付くっていう(笑)。
N:で、そういう人たちがテレビで身に着けているような服なんて店で売ってないからって、自分で作ってたんだよね。
F:そう。ないなら作ろうと。アメフトのユニフォームみたいに数字の入ったシャツとか、ピースマークの服とか、ベルボトムを着てる小学生。一張羅みたいに、いつも着てたもんなぁ。小学校でそんなの俺だけだから、浮いてたけど(笑)。ジーンズの横を切って広げて、毛糸で編み上げにしたり。
N:あったねー! それで自転車に乗ったら、すぐチェーンに絡んで汚れて大変だったっていうやつね(笑)。
F:そうそう。昔ってベルボトムが流行ってたから、自転車に乗るとチェーンに挟まる挟まる!(笑) 絡まって黒くなっちゃうことが、よくあったな。

———もし当時SNSがあったら、“オシャレ小学生”として話題になりそうなレベルですね。

F:でも、そんな風にオシャレはしてたんだけど、小学生の頃はモテるどころか、むしろ女の子には敬遠されていたぐらい。要はイケてない子だったんだよ(笑)。やや小太りだったり、走るのも遅いし、勉強もそんなにできないし。
N:そうね、スポーツもずば抜けて何かが得意っていうのはなかったもんね(笑)。
F:アイドルに憧れて髪を伸ばしてたんだけど、周りはいがぐり坊主しかいない。ある意味、「ちびまる子ちゃん」の花輪くんみたいな感じで浮いてたんだよ(笑)。中学生になるとみんな髪を伸ばし始めたんだけど、なんでも俺は早過ぎたんだよな。とにかく昔から最先端のものが好きだった。で、小学生の最先端といえば、文房具じゃん。新発売の筆箱とか、新しい物をいつも最初に持ってたんだよ。別に金持ちじゃないんだけど、今思うと親が忙しくて面倒をよく見られないから、欲しいものは買い与えてくれてたんじゃないかな。文房具なんて高くもないしさ。で、俺のアンチだった女子たちは、そういうのが鼻についたというのもあったんだと思う。なのに、中学校に入って急にモテ始めた(笑)。なんとなく、人当たりの柔らかさみたいなのがあったのかもしれない。家が美容室だから人の出入りが激しいし、女性ばっかりの環境だから、女性と話し慣れていたというのはあるし。家に帰ると、いつも知らないおばちゃんやお姉さんがいて、「あら、郁弥ちゃん、おかえり」とか可愛がられてたからね(笑)。ゴツゴツした体育会系でもないし、別に「男は男らしく」みたいな育ち方もしていないし、ちょっとユニセックス性があったのかもしれないとも思う。服装も、中学に入った時点ですでに最先端を行ってたんだよ。学校は制服だけど、私服は当時流行ってたVANとかアイビー系を買って着てた。ダウン・タウン・ブギウギ・バンドが流行ったら、すぐにつなぎを買いに行くとか。そのバンドの衣装が、名前の一文字をつなぎに書いてたんだよ。それで俺も胸に「郁」とか書いてた(笑)。
N:そうそうそう! 名前の一文字ね、あったね〜(笑)。
F:中学の時とかね。いやー、頑張ってオシャレしてたね! 別にモテたいから着るとかじゃないんだよ。純粋に、自分的にかっこいい服やオシャレな服が着たい、売ってないなら作る。そういえば俺、女の子にモテたいと思って何かをしたことは一度もなかったな。好きでやってただけ。尚之は当時、俺のお下がりを着てたぐらいだったよね。
N:そう。でも結局俺の方が背が大きくなって、お下がりがだんだん着れなくなってね(笑)。
F:そして中1から音楽にハマったから、興味の対象が音楽とファッションになる。そこから俺は急に、アイドルではなくミュージシャン系のファッションにいくんだよ。でも当時はミュージシャンの映像を見る機会がないから、レコードジャケットや雑誌ぐらいの数少ない情報から探すしかなかった。そして、いわゆる不良っぽいミュージシャンのファッションに惹かれるようになっていく。まだ革ジャンは買えないからビニジャン着たりして。でもいわゆる本当の不良、今で言うヤンキーみたいなのとは違うんだよ。

———バンド系の人は、そういうタイプの不良とは違うのに、大人から見ると一緒くたに混ぜられがちな時代ですね。

F:彼らはパンチパーマでボンタンジーンズ、女性用の白いつっかけサンダルとか履いちゃって。オシャレなファッションというものとは違ってた。
N:あの人たちは、靴も普通に履かないで、必ずかかとを潰して履くんだよね(笑)。
F:それにしても今思うと、服を買うお金はどうしてたんだろう。まだバイトもできない年齢の頃は、なけなしの金で買ってたのか、それかお袋にねだってたのか、ちょっと覚えてないけど。家は金持ちではないながらも、お袋がまあまあ羽振りがよかったんだろうね。
N:なんせ、町に美容室が一軒しかなかったからね。
F:多い時は二人ぐらい雇ってたもんね。女性はみんなパーマをかけていたし、お出かけする時の着物の着付けやセットもしてたから。
N:しかも、お客さんに昼飯や晩飯まで普通に出してたっていう(笑)。
F:誰にでも「食べていかんね!」って(笑)。もう常に人がいて井戸端会議だった。
N:そして、周りから野菜や果物が届けられる。みんな勝手に玄関先に置いてってくれるわけ。それを見て「ああ、筍のシーズンになったんだな」みたいな。
F:おそらく売り物じゃなくて、野菜がいっぱいできちゃったのを持ってきてくれたんだと思うけどね。いつももらってたから、柿とか筍はお金を出して買ったことないね。
N:みかんは箱で買ってたけど、柿なんかはその辺の木にいくらでもなってるし。
F:東京に来て、「柿が売ってる!」って驚いたからね(笑)。えーと、何の話からこうなったんだっけ?

———ファッションの話です。いいんです、フリートークですから(笑)。

N:当時、コンバースも出てきた頃でしたね。そこらのスニーカーとは全っ然デザインも値段も違って、そりゃあもう衝撃的でしたよ。
F:ハイカットのコンバースね。当時はバッシューと言われてて、実際にバスケ部の友達ぐらいしか履いてなかった。次に、古着にハマっていったと思う。50年代のアメカジにリーゼントスタイル。高校生になった時はすでに、かなりのオシャレさんだった。もうバイトも始めてたから、服は結構持ってたな。
N:東京の「クリームソーダ」っぽい、ロックンロールな切り口の店もあったし。あとはボウリングシャツとか。コカ・コーラの制服を手に入れたりね。
F:そうそう、流行ったんだよな。俺はペプシしか持ってなかったけど、コカ・コーラなんて入手困難で、着てると従業員から「お前、それどこで手に入れたんだ?」って言われるぐらい。古着屋で服を買ったりもしてた。洒落た古着屋の服は高いから、普通の、倉庫で着物とかも売ってるような店。高校生になってからは、久留米で一番流行ってる洋服屋に入り浸ってた。そこに遊びに行って常連になるのが、久留米の町ではちょっとステイタス的な(笑)。
N:一応セレクトショップだったよね。テイストは偏ってはいなくて、でも通好みなアイテムもあるという。髪型は、ある時からリーゼント系ではなくなったよね。
F:そう。俺はすでに50sのリーゼントをやめて、いち早くニューウェーブに行っちゃってた。だから、チェッカーズでデビューする時の衣装にも何の抵抗もなかったんだよね。東京に来た時点では、裕二も享も高杢もリーゼント、政治はリーゼントできる髪型ではなかったけど50sだった。クロベエは当時デュラン・デュランが好きで、髪型を真似してたな(笑)。尚之はどうだったっけ?
N:俺も、もうその時はリーゼントにはしてなかったな。
F:そうだよね。

———当時、洋楽アーティストのファッションへの影響は大きかったですよね。その後、MTVも出てきましたし。チェッカーズのメンバーは洋楽に触れていたからこそ、衣装以外でも明確な好みや意思をもって自分のスタイルを楽しんでいた印象です。

F:ファッションって、興味ない人は全然ないからね。最近の若いミュージシャンを見ていても、衣装はいいけど私服は無頓着な人ってめちゃくちゃ多い(笑)。まあ興味は人それぞれだから、別にいいんだけどさ。でも俺ね、若い頃は洋服がイケてないミュージシャンが本当に嫌いで、むしろ見た目から入るようなところもあった。それがある時、逆転したんだよね。ソロになってから、だんだんアメリカ西海岸のロックが好きになったんだけど、そこにファッションセンスというものはなかったのよ(笑)。
N:もう、とんでもない感じだったよね(笑)。ヒッピーな感じだったり。
F:TOTOにしてもイーグルスにしても、Tシャツとジーンズに髭面。オシャレさは皆無(笑)。でも楽曲はすごくいいんだよ。その時に初めて、ミュージシャンに必ずしもファッションは関係ないと思えるようになった。なんならファッションにこだわりすぎてるよりも、ダサいぐらいの方が職人気質でいいんじゃないか?って逆転した時期もあったぐらい。それはそれで極端なんだけど。
N:たしかに、その辺りで音楽とファッションがリンクしなくなるっていうのはあったね。例えばジャズ系でも、昔は絶対にスーツと蝶ネクタイで演奏するのが定番だったのが、バップとかフリージャズになると関係なくなってしまう。ロックもそう。ビートルズがああいう髪型やスタイルになって、だんだん崩れて変わっていった。まあ、イギリスはロックやモッズがファッションとしてありましたけど。
F:イギリス系のミュージシャンは崩してもオシャレさがあるんだけど、アメリカはそもそもファッションというものがなかったからね。あと、俺的にOKなダサさとダメなダサさっていうのもある。全然洋服にこだわらないミュージシャンでも、すごいなぁと尊敬している人はいるんだよ。それはきっと、生き方がカッコいいからだろうな。

———フミヤさんはデザイナーのお友達も多いですし、歌詞にもファッションが感じられる描写がよく出てきます。

F:「最後の晩餐」なんかは、とにかくビジュアル重視で映画のように書いたからね。「背中の開いたドレス」なんて、日常で着ることはほぼないじゃん。でも、男としては着てほしいわけさ(笑)。ラブソングでも曲によって主人公の年齢やキャラやシチュエーションは違うから、ファッションも当然変わる。若い恋愛が始まったばかりの、「好きだ! したい!」みたいな歌なら(笑)、彼女はパーカー着ててもいいんだよ。でも大人のセクシーな歌はさ、やっぱりセクシーな服を着ていてほしいんだよ。願望として、そういうイメージで書いているから。でもさぁ、若い時の思い出でも、相手の髪や手に触れた時の感覚や気持ちは覚えていても、その子の服装は全然覚えていないんだよ。本当はすべての場面を記憶しておきたい、忘れたくないことなのに、消えていってしまうんだなぁって。そう考えると、ファッションは大事な割に、記憶に残る要素としては薄いのかもと思っちゃうよね。
N:たしかに、その出来事は思い出に残っているし、シチュエーションとしては細部まで思い出せてもおかしくないのに、ポイントしか覚えていないっていうね。しかも若い時なんて、間違いなくお互い気合い入れて、一番いい格好してデートしてたはずなのに。
F:一方で、はっきり覚えている服もたまにある。やっぱりファッショナブルな方が記憶に残るよね。衝撃的なワンピースとかはインパクトがあるだろうけど、そこらの誰でも着てるような地味でシンプルなだけのファストファッションなんて、絶対に記憶には残らないから。
N:残らない、残らない(笑)。

●東京

———続いては、「東京」について伺いたいと思います。40年前に上京した時のことはいろいろな場でお話しされていますが、最近FFに入会された方も少なくないので、あらためて今お二人からお聞きできればと。

F:尚之が新幹線に初めて乗ったのは、上京した時だったよな?
N:いや、上京は飛行機だったのよ。新幹線にはデビュー後に仕事で初めて乗りましたね。もちろん飛行機もその時が初めて。まだレインボーブリッジもなくて、モノレールしかない昔の羽田空港から、タクシーで目黒の大鳥神社の方まで行ったんだよね。2台に分かれて乗ったんだけど、俺らのタクシーの運ちゃんが大鳥神社が分からんで、目的地まで着けなかったのよ。もっと手前の権之助坂で降ろされて、交番があったから「すみません、ヤマハはどこですか?」って(笑)。
F:1台目の俺らはちゃんと着いたのにな(笑)。今も、俺の三社参りのひとつには大鳥神社が入ってる。本当にバッグ一個で出てきたんだよな。後から、みかん箱みたいなので荷物が少し届いたぐらいで。俺も気に入ってる服だけ持って来た。
N:本当に、楽器とバッグひとつぐらいで出て来ましたね。後で届いた段ボールを、たんすにしてそのまま使ってたもんね(笑)。
F:それで、メンバーの中では俺だけが東京をすでに知ってたから、電車でみんなを渋谷に連れていったりして。
N:あの時は電車じゃなくてバスで渋谷まで行って、そこから原宿まで歩いたんですよ。
F:お前、本当に何でもよく覚えてるなー!(笑) そうか、渋谷行きのバスに乗ったんだ。それで渋谷駅前に着いたら「今日は、祭りかなんかありようと?」って、みんな本気で言ってた。本当にそう思うよな。
N:スクランブル交差点で「これ何? 花火大会でもあると?」ってね。だって、一回の信号だけですごい人数がおってさー。そりゃもう驚きでしたよ!
F:それから原宿の古着屋に連れていったんだよな。
N:そう。「赤富士」とか「クリームソーダ」。でも俺らは九州弁でなまってるから、店でしゃべれないわけ。結局、お店の人に「ああ、君たち修学旅行?」とか言われたんだけど(笑)。
F:みんな、やたら無口なんだよ。いくら頑張ってオシャレしてても、しゃべると田舎モンはすぐ分かっちゃう。どうしても最初は、田舎モンだってバレちゃダメだ、バレたら負けだ、みたいな気持ちがあってね(笑)。実際、都会の子ほどあか抜けてたよ。当時はサーファーが流行ってて、イケてる女の子はちょっと日に焼けてた。と言っても、まだ茶髪や金髪ではなかったんだよ。今みたいにカラーリングが一般的な時代じゃないから、茶髪は本気の不良が脱色してるぐらい(笑)。街歩いてるオシャレな子で金髪なのは、宝塚の子ぐらいだったな。
N:あと、ワンポイントメッシュもあったね。
F:あったあった。俺が「Another Orion」の時に赤いメッシュ入れたのも、あえて当時の懐かしいメッシュを入れたら逆に新鮮かなと。しかも、どうせなら赤にしようって。でも東京に住んでみてだんだん分かってくるのが、渋谷や原宿でも、都会っぽいふりしてるけど俺らと同じ地方出身者も多いんだってこと。

———とくに週末の渋谷や原宿は、観光客が多いですしね。近年、東京在住の地方出身者は45%ぐらいと言われます。

N:あとさ、今はもう新幹線で上野と東京が繋がってるけど、当時は南や西から上京するのは東京着で、東北からは上野着だったじゃん? 今よりも都市部と地方の差が大きかったから、南や西から来る人と北から来る人とではカラーが全然違ったよね。
F:かなり違ったね! 本当に新幹線のホームにいる人のタイプが全然違ったんだよ。当時の東北新幹線は、今より暗めなイメージだった。東海道新幹線は、その先に昔の都である京都や大阪があるから華やかなんだろうな。今はインターネットもあるし全国で買い物や情報の差がないけど、当時は全然違った。東京に出てきて暮らすエリアも、東北から来た人たちは上野近辺から東京生活が始まってて、俺らにとっての渋谷が上野に当たるような感じで。
N:そうだよね。住むのは池袋とかそっち側だったり。
F:あと浅草とか下町ね。
N:俺らが遊びに行くにしても、まず目黒の寮から近い渋谷や原宿辺りでしたね。新宿はちょっと怖いし、それを越えて池袋まで行く勇気もなかった(笑)。もちろん銀座も行けない。あと、当時の東京は今みたいにビルがたくさん建っている街じゃなかった。原宿なんて、人はしこたま多かったけどビルは全然なかったよね。
F:そうなんだよな。当時と今では東京の景色は全然違う。まだハイタワーは新宿に少ししかなくて、それも今よりずっと低いビル。池袋にサンシャイン60が建ったばかりだったよね。東京タワーの周りにも何もなかった。東京タワーには、俺は上京前に修学旅行で昇ってたけど、尚之は?
N:俺は東京タワーには行ったことがなかったな。「おはスタ」の仕事で行ったぐらい。
F:俺らも住んでいるうちに東京弁になっていくんだけど、誰かが「だからさー」とか言い出すと、「うわー! こいつ今、“さー”って言うたばい!」って大騒ぎ。メンバー同士の会話は、ほぼ久留米弁だったけどね。でも結局、お前の久留米弁は抜けなかったな。
N:抜けなかったですねぇ(笑)。標準語も話すけど。
F:昔は福岡に帰った時にホッとしてたのが、いつからか逆転して、地方から東京に戻ってくると落ち着くようになった。もう、俺らにとっては東京がホームだもんな。最終的には田舎でのんびり暮らしたいという夢もあったけど、だんだんそれは無理だろうなと思いつつある。俺一人の人生じゃないのと、急に田舎に行ったとしても知り合いがいないから。
N:ああ、それはあるよね。やっぱり知り合いがいるとか、何かしら縁がある場所じゃないとね。
F:歳をとってゼロから知り合いを作るのも難しいし、ずっとそこで暮らせるかというとちょっとね。田舎には旅行でたまに泊まるぐらいでいいや、と思うようになってきた。最近は2拠点暮らしも流行ってるけど、俺なら東京ともう1箇所ってことでしょ。もし住むとしたら、そうだなぁ……どうせなら福岡以外に住んでみたいかも。京都の郊外とか。この間、松山に行った時、こういうところで暮らせたらいいなって本当に思った。温泉もあるしデパートもあってちょうどいい。藤井兄弟は九州人だからだと思うけど、個人的に東京より上は、いくらいい街だとしても住むイメージが湧かないんだけど……。
N:ああ、たしかにそれはそうだね。基本、寒いのが苦手ですし(笑)。
F:完全に北のDNAがないもんね、俺たち。せいぜい近場の軽井沢ぐらいまでが限界かな。まあ俺は、このままずっと東京なのかもしれないなぁとも思いつつ。

●音楽

———続いて「音楽」について。お二人は中学時代から音楽とともに生きてこられましたが、主に洋楽をいろいろと聴いていたことが、表現の広さ・深さに繋がっているかと思います。

F:本当に、好きな音楽は洋楽ばっかりだったからね。邦楽はキャロルやクールスまでは聴いたけど、あとは洋楽、しかもマニアックな方向に行っちゃった。UKとかパンクとかブラック系とか。メンバーの誰も邦楽には行かなかったな。
N:うん。みんな洋楽ばっかり聴いてたね。最初に飛びついたキャロルやクールスを通じてロックンロールというカテゴリーを知って、そこから洋楽のオールディーズに行ったんだよね。
F:そう。最初はオールディーズばっかり。東京に来てからニューウェーブやブラックミュージック、いろんな洋楽を聴くようになった。そのうち、自分も日本語で歌っていく上で、知識としての日本のニューミュージックとかは一応分かるようになるんだけど。
N:洋楽はルーツから発展していくのが楽しいんですよ。ソウルという幹からブラックミュージックがいろんな枝葉に分かれて、さらにラップとか違うジャンルも出てきて。

マネージャー:日本でも一時期「R&B系」と言われる人たちが多く出ましたけど、ジャンル分けが不明瞭になりましたよね。

N:そうなんだよね。文字通りリズム&ブルースなんだから、ちゃんと根っこがブルースだってことを知った上でやらないと。簡単にR&Bなんて語っちゃおかしいですよ、と思うことは多いですね。
F:そう。ブルースが入ってないと、ジャンル分けとしておかしなことになる。もともとレイ・チャールズとかそういうところだからね。普通のブラックミュージックでもR&Bとは言わなかったし、スティーヴィー・ワンダーのクラスでもソウルと言ってたぐらい、ブルースはもっと深いものだったから。逆にブルースのバンドをR&Bの中に入れていたり、えっ?と違和感を感じることは結構ある。あとさ、80年代頃は、洋楽と邦楽でサウンドが全然違ったんだよね。あまりにも、その差があからさま過ぎた。それも洋楽ばかり聴いていた理由のひとつ。山下達郎さんあたりは洋楽っぽいサウンドだったけど。
N:実際に当時は、この音は日本では絶対に出せない!みたいなのもあったからね。目指す音を作るための環境や技術を求めて、海外でレコーディングすることも多かった。ただ、そのうち海外で作ること自体がステイタスみたいになって、誰でもレコーディングしに行くような時代もございましたけど(笑)。
F:今はもう、洋楽・邦楽ともサウンドは変わらないね。
N:うん、よっぽど細かくこだわってるアーティストじゃない限り、全然変わらない。

———音楽の作り方も聴き方も、かなり変わってきていますよね。

N:最近の制作の現場で「ええっ?」ってすごく驚いたのが、ミックスダウンの作業もヘッドフォンでするということ。聴く人が主にスピーカーではなくヘッドフォンで聴くようになってるから、その聴こえ方に合わせて調整するようになってるんだよね。残念だけど、もう部屋のステレオでゆっくり「いやー、いい音ですねぇ」って味わう時代じゃないから。実際に自分も普段の生活でそういう聴き方はできていないし。でも、音楽好きな人の家で素晴らしいスピーカーで聴くと、やっぱり「うわー、すごくいいな!」と思うんですよ。レコードの針を落として聴くのって、それ自体が、これから音楽を聴きますという儀式じゃないですか。そしてサウンドに臨場感があって、目の前に本当に演奏者がいるような不思議な感覚。リバーブなんて全然要らないぐらい、驚くほどいい音。でも今の若い人は、そういうものを知らないし求めてもいない。配信とかYouTubeだけとか、そういう時代になってしまってるからね。
F:もう、よほどのクラシック好きとか音楽マニアでもないと、わざわざ音質にこだわって大きなスピーカーでじっくり聴いたりはしないのかもね。
N:もちろん、いい音やいい演奏というものは大事にしたいんですけどね。音楽の聴き方に関して、今後さらに新しい展開が出てくるかというと、もう今以上の発展はないような気がしてる。例えば映像技術なんかは進化し続けてるじゃないですか。でも音楽は、形がなくなって配信になった段階で、ある程度行けるところまで行っちゃってるんじゃないかと。一方でライブは、実際に演奏する人たちの生演奏を身体で感じられるもの。これは昔も今も変わらない、絶対的で普遍的なものだよね。
F:いくら配信が増えてきたと言っても、本来のリアルなライブという形はなくならないからね。生で演奏して聴いてもらうのが音楽のそもそもの形だし、これからも大事にしていきたい。

●若々しさ

———最後に、年齢と絡めて「若々しさ」というものについてお聞きしたいと思います。F-BLOODツアーのMCで、フミヤさんが「定年の年齢」とおっしゃっていましたが、フミヤさんから定年退職という概念が出てくるのが意外でした(笑)。

F:それはね、実際この年になってみたら同級生たちが今年で定年退職だと聞いて、「そうか。俺も世間で言う定年の歳なんだ!」って実感してるからなんだよ(笑)。
N:ああ、なるほどねー!(笑) 俺も知ってる兄ちゃんの同級生、あの人もこの人も定年ですよっていうことか。そっか、そう考えるとリアルだね。
F:もちろん会社が立場を変えて雇い続けてくれるところもあるんだろうけど、基本は60歳定年だから。世間では俺らも、その歳なんだよ。
N:たしかに。でもまあ、我々の職業は関係ないですからね。
F:そう、引退はあるけど定年は一切ない。スポーツ選手と違ってミュージシャンは活動できる期間が長い。でも、お前もあと2年でその年だからな!
N:ええ、ええ、もちろん還暦は私にもやってきますよ!(笑)

———それにしても、なぜ藤井兄弟はこんなにも若々しいんですかね。目の前で見ていても“奇跡の兄弟”としか(笑)。もちろん外見が若く見えることがすべてではないですが、「若々しさ」というのは心身の健康とも関係する大事なことです。

F:なんでだろう(笑)。でも周りのミュージシャンでも、めっちゃ歳とったなーっていう人そんなにいないよな?
N:そうですね。やっぱり仕事的にも、ストレスがあんまりないんでしょうねぇ(笑)。
F:俺の知り合いだと佐橋くんとか豪ちゃんとかナギとか、みんな昔とあんまり変わらない。やっぱり好きなことをやっていて、ストレスがほぼないからじゃないかな。逆に、業界以外の同い年の人に会うと驚くことはあるけど。
N:常にステージに立つタイプの人が若々しいのはよくあるとしても、ほとんど人前に出ないミュージシャンであっても若々しいからね。昔太ってた人が痩せたとかは多少あるけど、それも病気とかではなく運動とか食事で健康的に痩せて、「最近こういうこと気を付けてるんですよ」とか言ってたりするし。
F:そう。最近は音楽業界もヘルシーだからね。食事に気を付けてるとか、健康オタクレベルの人も多い。俺も自分では気を付けている方だと思ってたけど、健康オタクには全然敵わないよ(笑)。そういうのも、若々しい人が増えている理由のひとつかもね。俺なんかは精神的なストレスはほぼなくて、時間的・肉体的に忙しくて疲れが溜まることがある程度。で、疲れた日はアルコールを抜くのが一番。そもそも、もう二日酔いになるほど飲むことはなくなったけどね。飲む時は水も同時に飲むようにしたり、寝る前にサプリを飲んだりして対処する。とくにライブ前日は、食事の時もほぼ飲まない。俺の場合、連チャンで飲むのはキツいな。前はそんなことなかったのに、酒を抜いた次の日の爽快さが全然違うんだよ。つまり筋肉の疲れよりも、肝臓とか膵臓の内臓疲労なんだろうね(笑)。それにしても尚之は、なんで全然二日酔いしないの?
N:いやいや、するよ(笑)。それなりに飲んだ日は、多少は残りますよ。でも飲む量自体は、もう若い時と比べたら全っ然! 深酒もなく、適量で晩酌してます。適量ってなんだっていう話だけど(笑)。
F:あと、若々しさを感じさせる人たちは何が違うのかと考えたら、動きや姿勢なんだよ。とくに50〜60歳になると、姿勢がめちゃくちゃ大事。この前、あるイベントで宇崎竜童さんにお会いしたら、動きが若々しくて全然変わらなかった。その点で言うと、宝塚はやっぱりすごい。若い時に徹底的にピンとした姿勢を叩き込まれてるから、ほぼ全員若いんだよ!
N:ああ、なるほどねー! あの、上から糸でピーンと吊られているような感じね。納得。
F:大地真央さんと仲良くしてもらってるから、宝塚の他の人にも会う機会があるわけ。真央さんがすごいのはもちろんなんだけど、他の皆さんを見ても姿勢がすごく綺麗。

———男女とも、歳を重ねるほど個人差が大きくなる気がします。

F:そうなんだよね。結局、食事でも運動でも姿勢でも、いろんなことを意識するかしないかで差は広がるよね。変に若作りするのはどうかと思うけど、美容にお金をかけたり化粧をしたりしなくても若々しい人っているし。俺にとって本当のセクシーというのは、男も女も30代とか40代ぐらいだと思う。もちろんそれ以降でもセクシーな女性はいるし、50代60代でも頑張ってるオッサンもいっぱい知ってる。

———生き方は見た目に如実に出ますね。お二人を見ているとよく分かります。

●40周年アニバーサリーツアー

———さて、そんなお二人がデビュー40周年を迎えます。次号会報でフミヤさんのアニバーサリーツアー優先予約を行う予定となっています。

F:秋の40周年ツアーは尚之も一緒だから、チェッカーズからソロ、F-BLOODまで、すべて含めた中から楽曲を選ぶことになると思う。しかも全都道府県を回るからね。全国のFFに会えるのが今から楽しみ。よくよく考えるとデビュー以来、地方のイベンターこそ仕事での付き合いが一番長いということになるな。現場で長年お世話になっている人たちに会えるのも楽しみ。2月からのSpecial LoveSongツアーと併せて、久しぶりの友達やパートナーも誘って観に来てもらえたら嬉しい。

———2023年も盛り沢山の一年になりますね。また遠くない未来、F-BLOOD活動時期に兄弟インタビューをさせていただくのを楽しみにしています。ありがとうございました。

※インタビュー以降に内容に変更が生じている場合があります。ご了承ください。

★昨年12月にアップされたF-BLOODインタビュー前編はこちら
★Special LoveSongツアーなどについて語る、フミヤのソロインタビューはこちら