藤井画廊 第27回

髙島野十郎

左:髙島野十郎《蝋燭》昭和9(1934)年頃 個人蔵
右:髙島野十郎《月》昭和38(1963)年頃 個人蔵

FUTATABIツアー中、大阪で移動日のオフがあった。ホテルからそう遠くない場所に大阪中之島美術館があったので、のんびりアートでも観ようと思い立った。
大阪中之島美術館は2022年にオープンした新しい美術館だ。黒い箱のようなモダンな建築で、現代美術作家ヤノベケンジさんの巨大作品「ジャイアント・トらやん」や「SHIP’S CAT(Muse)」が展示されている。開館した年に「モディリアーニ ─愛と創作に捧げた35年─」を観に行ったことがある。
とりあえず検索してみると、休館日ではないので行けそうだ。「没後50年 髙島野十郎展」が開催中だという。髙島野十郎(たかしま・やじゅうろう)……知らない画家だが、どんな人、どんな作品なのだろうか? 闇に揺らめく蝋燭の絵が、展示のメインビジュアルになっている。ひとまずチケットを買って、展覧会場へ足を運んだ。

会場で、まず画家のプロフィールを読む。髙島野十郎は、明治23年(1890年)福岡県久留米市生まれ……えっ、久留米出身? しかも私の育った山川町の隣町、合川町の出身というではないか。明治23年当時は久留米市ができる前であり、ふたつの町は同じ御井郡に属していた。もし同じ時代だったら、同じ中学校に通っていたぐらいのご近所。野十郎も私も、耳納連山や筑後川を、ほぼ同じ位置から眺めていたということになる。しかも本名が「彌壽(やじゅ)」ということで、「弥」の字も共通している。なんだ、この縁は?! 最初にそう感じた。

作品を観ていくと、風景画や静物画など、その繊細で精密な技法とセンスのよさに感動した。
髙島野十郎は、生前にはその存在をほとんど知られることがなく、没後数年が経ってから、ようやく世に知られるようになったようだ。特定の美術団体に属することなく、自ら画業を極めた孤高の画家だったという。なぜ、これほどの魅力ある画家が有名にならなかったのか、不思議に思えた。

「月」と「蝋燭」を主題とした作品が彼の代表作らしく、何枚も展示されていた。

「月」の作品の中に、闇にポツンと満月が浮かんでいるだけの絵があった。これぞ究極の月の絵。彼はきっと、そこに到達したのだ。

「蝋燭」というシリーズは、生涯に渡って何枚も制作されているが、公の場で発表することはなかった。なぜなら蝋燭の絵は、あくまで親しい友人や知人、世話になった人への贈り物や感謝の気持ちとして描いたものだったからだ。サイズはハードカバーの本くらいで、描かれている蝋燭は、直径2~3センチほどの実寸大。
「蝋燭」と「月」のシリーズだけで構成されている展示室があった。暗闇に何枚も展示され、スポット照明が絵の部分だけを照らしている。「蝋燭」が並ぶ様子は、まるで、暗い部屋に本物の蝋燭たちが揺らめいているように見えた。野十郎とその絵を受け取った人たちが、そこに集まって笑っているような気もした。

偶然に出会った、髙島野十郎という同郷の洋画家。すでに絵画好きには知られているのだろうが、これから、さらに多くの人がその魅力を知る画家になってゆく気がする。没後、遺跡のように突然発掘されて現れた、という新鮮さもある。
美術界は、どうも野十郎のような生き様の画家を好む傾向があるように思う。野十郎は裕福な酒造家に生まれ、東京帝国大学の農学部水産学科を首席で卒業しながらも、周囲の期待に反して画家の道を選んだ。周りの人がパトロンとなってある程度は支えるが、売れない画家だったので、自身は最低限の暮らしだったようだ。どこかゴッホと似たものを感じる。家庭を持つこともなく、晩年は電気も水道もない小さな小屋のようなアトリエに住み、自給自足で暮らしていたそうだ。
必要最低限な物しか持たず、誰からも邪魔されずに、絵を描くことだけに人生を捧げる。まるで僧のような生き方で、理想とする絵画をひたすら追求し、ずっと絵のことだけを考えていたのだろう。そもそも孤独と孤高は違う。
そんな野十郎の孤高な画家としてのあり方を、ちょっとだけうらやましいと思ってしまうのはなぜだろうか?

「没後50年 髙島野十郎展」公式図録


「没後50年 髙島野十郎展」
2026年9月20日(日) ~12月6日(日) 宇都宮美術館